2021年6月2日水曜日

チャージドセットスタンドバイミー

xboxというゲーム機がxboxSeriesXとなった今、そしてxbox360が二世代前のゲーム機となった今、近所の友人が転職で引っ越した今であり、地上波でスタンドバイミーが放送された今だからふとどこかに文章としてまとめておきたいことがある。

 10代の頃からビデオゲームというものは浪漫、格好良さを感じていて物心ついた頃はスーパーファミコンの時代だった。小学校高学年といえばニンテンドー64だった。3Dで動くマリオを見て「未来のテレビゲーム機がやってくる!」と本気で思った。それこそ放課後と言えば自転車のカゴにゲームソフトとコントローラーと母親がショバ代だとくれたポテチを入れて友人の家まで行って遊んだ。

中学生になりプレステ2に出会い、アーマードコアとかエースコンバットを遊んだ。高校生の頃プレステ3は買えなかった。Xboxもまだ知らなかった。

そんな中、僕の家は割と早めにADSL環境やルータが備わっていて、家にネット環境がなかった知人達はゲーム機を担いでウチにやってきて僕の部屋でネットに繋いでオンラインモードを遊んでいたりした。僕は僕でそのオンラインモードを眺めたり、画面分割でローカル協力モードをしたり、余ってるモニタで別なゲームをしたり

大学生になってアルバイトをはじめた。理由はアーマードコア4がしたかったからプレステ3が欲しかった。

ゲーム機とソフトが買えるくらいにたまったとき、エースコンバット6と地球防衛軍3がXboxシリーズ360でしか遊べないと知った。アーマードコア4はPS3にもXbox360でも遊べた。

だから僕はXbox360を買った。ネット環境もあり、ゴールドメンバーになってはいた。

そんな中Xbox360でバトルフィールドバッドカンパニー2というゲームを知り、オンラインでネットで知り合った人々と同じ戦場に乗り込んでいた。一人一人は自分の家の自分の部屋で、オフラインでは離れた場所で、オンラインでは一緒の戦場でね。

まだ大学生だったし、オンラインでもオフラインでも友人という人はいた。なんの瞬間だったんだろう?もう5年早くこのテキストを書き始めていれば覚えていたと思う。

僕はXbox360を担いでやって来た友人を自室に招き入れ、xbox360を並べ、LANケーブルを繋ぎ、モニタも②枚あったから同じ戦場に乗り込んだ。同じ空間にゲーム機のセットが2つ、人間も2人、同じ戦場に乗り込んで隣のモニタをのぞき込み,隣で繰り広げられるスーパープレイに歓声を上げ、同じ袋の中のポテチを摘まみ小学生の頃に戻ったみたいだった。

その後参加する人間は一人、二人と増え、最初は持ち込まれていたモニタ、ゲーム機もそのうち「共同購入」という形になりモニタは4枚、5枚と増え、xbox360も電源を入れたらすぐに遊べる状態で増えていった。経年劣化等で脱落した筐体を含めれば僕は今までに何らかなの形でxbox360は11台入手した。自分のアカウントで自分が同時に使うのは1台だけだが。

モニタも初めはTN液晶の視野角が狭いモノを複数枚持っていたが、同じ戦場で戦っている隣の戦友の状況が見えないことがあると全てIPSに買い換えたり、アルバイト代は家賃の他には殆どゲーム機やネットワーク機器の為に使ったと思う。4人5人が同時にオンラインゲームしながらwifiに繋いだ自分のスマホを操作しても大丈夫なようにルータ、スイッチもそれなりの品質のものを買っていた気がする。そのなごりが部屋に鎮座する1G48ポートのスイッチである。

彼らは週末食料をもってやって来る。ポテチを摘まみコーヒーを飲みながら同じゲームをして終電過ぎたりなんかもした。その後「夕飯はちゃんとしたモノを食べよう」と夕飯の時間になるとゲームを終えて、食材買い出し部隊は買い出しに、残りは部屋を片続けてホットプレートを設置して夕飯を調理して、食べながら録画していた地上波の番組を眺めて、皿洗いをしてまたゲーム機の電源を入れる。終電まで遊ぶ、終電逃したヤツは泊まっていく

大型連休になると地方から新幹線や船、中にはバイクで和歌山から東京まで手ぶらでやって来てオンラインゲームをして止まって帰っていく

そこには子供の頃一つのゲーム機にコントローラーを複数接続して一つのテレビで画面分割対戦していたあの頃の少年少女がただただ時の流れのせいで大きくなっただけの空間があったと思う。そして大人になり大人になったからコソやれるアレやコレも

午前中からオヤツ片手に登場して、ゲームして、ご飯の用意して自分達が食べ、ショバ代だと俺の家族の分もお好み焼きとかを焼いて俺の家族に提供したり、鍋のシメに米が欲しいからと俺の母親に話をつけて炊いた米を分けて貰ったり、自分達がやった分洗い、ゴミの分別はしっかりやり、録画したテレビも余ったモニタで見ながらまたゲームして

だが時も流れる。一人一人と新しい生活が始まっていき来ることがなくなる。またオンラインゲームの中でだけ、SNSの中でだけ、オンラインの中でだけの関係になる。

大学生を終えた俺に年下だったヤツがスーツで遊びに来たことがあった。「どうしたんだその格好は」と聞くと「就活関係で諸々行ってきて「俺これからどうすればいいんですかね」とやってからこっちに来た」と言う。彼もそういう歳になったのだ。

ある子は帰り際に就職しましたと名刺をくれた。そういう歳になったのだ。

趣味がビデオゲーム以外になった子も勿論いる。

無論,俺にも問題は沢山あったし今も問題はある。殆どの場合受け入れるが離れていくことに関して引き留めることもしなかった。時の流れが止められないこと、ゲームありきで集まったためか、ゲームがあればどれだけでも受け入れるがゲームがなければ集まらなかったとも思う。繰り返すが俺にも問題は沢山あったし、今でも問題はある。

ビデオゲームに関して否定的な人がいるのは知っている。だがその理由に生身のコミュニケーションが云々言い出す人が俺の周りにはいた。その点に関して俺は今でもビデオゲーム、オンラインビデオゲームも含めて、ガキの頃トランプで大富豪をやったとか、マージャン台囲んでいるのと何ら変わらないと思っている 。

何故ならオンラインゲームは生身で集まって出来たのだから、隣で繰り広げられるスーパープレイに感動し、一つの目標に向かって同じ部屋で、時には隣のモニタに指紋ベッタベタにつけて指さして指示を出して戦場で戦ってきた。バトルフィールドもワールドオブタンクスもPUBGも他のゲームもね。

あの頃に用意したゲーム機は結局殆ど稼働しなくなった。とはいっても予備機扱いである。まだある。スマブラで楽しんだWiiUだってまだある。あの頃20代だった俺達は「WiiUでスマブラをしにダチの家に集まった」のである。

諸々の付き合いが全て無くなったわけではない。オンラインで新しいゲームを共に遊ぶ仲間もいる。大型連休や年末年始に忘年会という形で集まり、居酒屋で盛り上がり、カラオケしたり、サウナ入ってみたり諸々もする。

XboxSeriesXが発売され、BFBC2の互換があると思いだしプレイしてみると、ゲームタイトルの西暦の表記から時の流れを感じ、そして希にいるかつて名前を嫌と言うほど見たプレイヤーが生き残っているのも眺め、モーションセンサーを投げ、MCOMに爆薬を設置しふと、あれからだいぶ月日が流れてしまったな、だいぶ色々なことが変わったなと思う。

どうして大人にならなければいけなかったのか、大人とは何なのか,何だから大人にならなければいけないのか、俺はただ、ずっと小学生だったあの頃みたいにチャリンコのカゴにゲームソフトとコントローラー入れて走って集まって遊んでいたあの日々が続けば良いと願っていた。20代の頃は、xbox360の時代の頃は今よりも強く思っていたと思う。そうその1世代前のPS2くらいまでの頃はまだオンラインモードというものが家庭用ゲーム機ではめずらしかったり、家のネット設備がまだ普及していなかったあの頃、だからこそだったのかもしれない。

 今の俺といえばあの頃4人5人が同時にゲームしてスマホ弄って余ったモニタでChromeCastでYoutube流していても落ちないネットワークを用意しようとIX2015やらRTX1200のconfig弄っていただの、PCでも遊ぶことがあるのでマインクラフトだのファクトリオだののサーバーをlinuxで構築して、サーバーとユーザー端末のLANはわけたほうがいいからとVLAN切ったりDMZこしらえたりと、unboundでDNSキャッシュサーバー用意してdhcpdでmacでIP固定だのdhcpd冗長構成したりだのその知識を使って飯を食っている。

10代の俺は暗く、20代の俺は10代の頃手にすることが出来なかったアレコレを埋めようとしていた。30代の俺は20代の頃に得たもので今がある。20代の俺は今の俺の足しになってくれている。

若かったから、まだ学生だったり学生から上がったくらいだったからあんな馬鹿騒ぎが出来たんだと思う。

日本ではLANパーティーは珍しかったと思うし、それらを実現し、維持し続けたのはある意味「ビデオゲームは悪だ!」と言い続けたりダシにしてきた大人への皮肉だったのかと思う。トランプで遊ぶのやマージャンで遊ぶのと何が違う?と

でも、20代の頃のような素晴らしい戦友、経験はもう二度と出来ないとそう思う。

そんなことを、地上波でやっていたスタンドバイミーをラストまで見てしみじみと思った。

2019年10月14日月曜日

床上浸水と停電により後ほど連絡を受ける

台風19号がかなり凄いらしいとニュースやツイッターで聞きはすれど、
どうせ大したことなんて起きないだろうと12日は日中NHKを垂れ流しつつボーダーランズ3を知人とプレイしていた。
そのうち外でサイレンが鳴った。この町に30年住んでいるがサイレンなぞ初めて聞いた。まぁいつもよりもちょっとだけすごいんだろう。

夕方また外でサイレンが鳴った。普段とちょいと違うんだろう。
それくらいの感覚だったので母と話し普段よりもはやい時間に飯を食ってはやい時間に風呂に入っておこう。そういうことにした。

ただ、普段よりもニュースが物騒なことを言ってるので猫の餌、猫の避難用キャリーバッグ、祖母のオシメなどの介護用品を2階に上げておこう。そういうことになった。
それらを二階に上げた後祖母の話題になった。
一階のベッドで寝ている祖母は要介護なので避難所に言ってもどうにもならない。だから床上浸水した場合は俺がオンブして二階に避難してもらおう、一度もそんなことはしたことがなく祖母自身自力では介護判定になってから一度も二階に上がったことはないのだが。。。

その場合車椅子って二階の廊下を移動できるんだっけ?どの部屋に寝てもらう?
試しに車椅子を二階に上げてみて廊下を移動させてみる。自分の部屋以外は
二階のトイレまで車椅子を乗り回せないだろう。まぁそんなことにはならないだろうが今後の防災のためのシチューエション確認である。

さてようやく俺と母の食事だ。普段よりも物騒な報道をされている台風のおかげでスーパーであまり手ごろなものが売ってなかった。
我が家のカレーは普段安い豚肉だが、母が仕事が終わりスーパーにたどり着いたころには高級カレー用牛肉しか売ってなかった。だから今日のカレーは普段よりもリッチだ。台風様様である。

食事が終わり煙草を吸ってから俺が先に風呂入るわ、となり母は祖母の食事を用意することにした。
自室で煙草を吸うために食卓から廊下に出たときに、廊下で土の臭いをかいだのである。
母になんか廊下が土臭い、普段よりも雨が凄いんだろうねぇなんて言って階段を上がり自室で煙草に火をつけたときに一階から母親が俺を呼んだ。「外が凄いことになっている」

既に道路は水に沈んでいて玄関の靴を置く一段低い場所まで1cmほどまで水位が上がっていて玄関が水日だしになる危険性があった。
母と祖母の部屋まで行き祖母を俺がオンブして母が後ろから祖母のケツを補助するかたちで階段を上がり俺の自室の寝床に寝てもらった。
そのまま一階にあった祖母の車椅子、歩行器を俺の部屋にぶち込んだのちに、母と一階に戻り、母は祖母の食事の用意を始めた。俺はその時に母と台所にいた。

その時、ボコンと音を立てて台所の床下収納の蓋が持ち上がったのである。何を言っているのかわからない上に我が家は床下にニンジャを雇っていないのだが、床下収納の蓋がプカプカと浮かび上がってきたので蓋を外した。
中で収納部分の容器が水に浮いているということは床下浸水である。

母に新聞紙を持ってこいといい床に敷いてもらい床下収納の容器部分を引き上げて床に置き蓋を閉じる。
テーブルを動かしテーブルの脚で床下収納の蓋を踏んだ。

祖母の食事を母は用意して2階に運びはじめ、母に先に風呂に入れと言われ俺は着替えを持って風呂に入った。
...が水が排水溝に入っていかないのである。シャワーは出る。上水は大丈夫なのだが下水が機能していない。
風呂に入ることをあきらめトイレで用を足し、水を流した。
冷静な読者であれば分かっていると思うが下水が機能していないのに上水が流れるからとトイレの水を流すとどうなるか、なお、大のほうであった。これ以上の詳細は語る必要はないでしょう
トイレの話はうやむやにするとして玄関に水が入ってきた。

一階を捨てるぞという宣言で俺も母も1階のその辺のモノをテーブルの上に乗せて二階に上がる。
祖母に「バーチャンすまんねぇ、床下浸水始まっちゃってさぁ煙草くせぇし狭いが一日我慢してくれ」とか言いつつモニタアームで釣っていたモニタを調整し祖母が寝ているベッドから見やすいようにしNHKをつけた。
祖母も「いつもの私の部屋よりいいわー!猫はいるし寝ていてもテレビが見れるし」なんて言ってくれる余裕と、
今までそういうことをしたことはなかったがオンブされて二階に上げられるという事態であると理解してくれた。
祖母はほぼボケておらず頭はピンシャカしているという認識なので介護する側としては非常にありがたい。

電気と上水は生きている。ガスは二階にはないが電気ケトルも電気ポットもある。下水が機能しないため母は昔買ってきた携帯トイレ50個分を発掘しトイレに備える作業をした。
懐中電灯は2個、携帯ラジオも1つ、単三乾電池96本に単四乾電池48本、食料は運んできている。水14リットル、コーラ2リットル、ペットボトルコーヒー20リットルにカップ麺6つ、菓子パンもあるし柿の種もある。台風は今夜には過ぎるだろうからまぁ一晩念のために二階に避難だな。という程度だった。

ボケーっと祖母を寝かしている部屋のテレビの音を隣の部屋で聞きつつ3DSでメダロットクラシックしつつ眠くならねーなーと思っていたのだが、その時電気が消えた。つーかテレビの音をも聞こえなくなったというかブレーカーが落ちた。

んなあほな、この家の定常時ではこの程度でしかも現時点で一階は放棄してかなりの数の家電の電源を落としコンセント抜いてきた状態で電気の使い過ぎでブレーカーが落ちるわけねぇと思いつつ懐中電灯を持って階段に向かい一階の様子を確認しに行ったのだがこの時すでに廊下は水浸しだった。つまり床上浸水を確認したのである。
廊下から見てまだ5cmとかだったんだろうか...ツイッターに「やべーよ床上浸水してきたよ停電したよ」的なことを発言しつつ、周囲から停電したならブレーカー落とせと言われ足を濡らしながらブレーカーを全部下した。

この前後くらいから家全体からゴボゴボというトイレで水を流した時のような音がするようになった。

人間3人と猫1匹、猫はともかくとして人間3人に対して懐中電灯は2個、用を足しに部屋から離れる者もいれば下の様子を階段越しに見に行く者もいる。そうなってようやく懐中電灯ってそもそも人数分あるだけじゃダメじゃね?人数の二倍くらいないと不自由じゃね?とか懐中電灯じゃなくてLEDランタンみたいな周囲を照らせるものがないとくらくてシャレにならなくね?と気が付く、とりあえずアマゾンで手ごろな商品を眺めて今度は買っておこう程度に考える。

台風が近いのか雨風が凄く家が揺れる。そんな時に一階で轟音がした。階段から下の様子を見るが何が起きたのかはわからない。ただ2階への階段の1段目は水に浸かっていた。20cmくらい廊下の床から図ると浸水してるんじゃないだろうか

猫と俺の自室を祖母に貸した俺は隣の部屋にいた。猫は部屋よりも俺がいいと思ってくれたようで俺の隣までやってきてゴロゴロしている。母もやってきて「初めて二階建ての家買っていいと思ったわ」などと言っている。

明かりが足りないので懐中電灯片手に自室を物色し、モバイルバッテリーと昔使っていたガラケーを発掘する。
カメラのフラッシュが常時点灯できれば明かりの足しになると思ったのが、設定を思い出せないのか仕様として連続点灯できないのかすぐにフラッシュが消えるので役に立たない。

そのうち今家にいない他の家族が放置していた100Vコンセントの口が搭載されているモバイルバッテリーが発見された。
自室を再度懐中電灯片手に物色し、壁からLEDライトとACアダプタを引きはがしソイツに繋げる。ヤベーLEDとかリチウム電池とか文明の発明ダワー

そのうち一階からのゴボゴボ音が強くなってきた。見に行くと水位が下がり始めていた。
ここまで来たらもう朝を迎えるだけだなと思い寝た。

が、AM3時に母に起こされた。床上の水が引いたので一階に行ったら冷蔵庫が横転してたので起こしてくれ言われ
んなもん日が昇ってからでもかわんねーよ...と思いつつ冷蔵庫を立たせる。
ついでに和室だった祖母の部屋の様子でも見るかと引き戸に手をかけたのだが...俺の力ではどう頑張っても戸が水を吸ってあかないのである。
その時、床上浸水始まってからバーチャンおんぶして二階に逃げようというのが実際は困難であることを理解した。今回我々は間に合ったのである。

母親から猫がどうにも一階を探検していたらしく目が覚めて廊下に行ったらちょうど猫が一階からきまり悪そうに上がってきたと言っていた。普段人間も心配するほどにものぐさでやる気もなく自室から出ない猫ではあるが、今回は流石に下で何かが起きてそれが収まったとでも思ったのか遊びに行ったらしい

外の様子を見てみると、道路はまだ膝ほど水があったのだが、ご近所さんや街灯の明かりはついている。
電気は戻ったのだろうと、母と話し冷蔵庫の中身が心配だからとブレーカーを上げた。。。が電気が来ない。

仕方がなく諦めてブレーカーをすべて下げなおして二階に戻りスマホでググった。というか今まで漏電ブレーカーなるものを知らなかった。アンペアブレーカー?のみを気にして生きていたことを知った瞬間だった。
この瞬間、生活に役に立つ電気の知恵を得たのである。台風とは素晴らしい、普段知らなくてもどうにでもなることを嫌でも生活のために教えてくれる。何事も経験である。

ブレーカーの前に立ち全部のアンペアブレーカー?を下ろしてから漏電ブレーカーを上げる。上がる。
ブレーカーを一つずつ上げ始める。一つ、二つ、バチンッと漏電ブレーカーが落ちる。
上げる順番を変えてようやく一つだけ上げると漏電ブレーカーが落ちてやり直しになるブレーカーを見つけた。
が、どこに繋がっているのか知らない。何が上がらないのか、漏電しているのか分からない。
そもそも、この状態で漏電ブレーカーが作動しない箇所だけ全てブレーカーを上げていいのか?AM3時である。
火事になったらどうする?と母と話しどうにもならんから朝まで全部ブレーカーを下げることにした。火事になるにも日が出てからでいい。

朝になり、近くに住んでいる姉夫婦が応援にやってきた。我が家よりも高い位置に家があるので床下浸水もなかったらしい。外も水は引いた。
漏電している箇所が分かった。全員におかしいと思ったらすぐにブレーカーを落とすように、コンセント引っこ抜くようにとブレーカーを上げた。
上下水、ガス、電気が復旧した。ネットワーク機器も1階のおおもとのスイッチが浸水して駄目になり1階のネットワークは駄目になったがONUやルータ、サーバは全て2階にあり、インターネットに接続する部分はルータが3重化、ONUが2重化していたため最低限度の稼働は始めた。逆に言うと全部稼働していれば1番機とか主機になるべく装置がちゃんと上がらず、ここが冗長構成で安心したのは確かである。(電源ロストに対しては無力であるが...)おかげでWiFiも飛び始めた。

その後は...姉夫婦が持ってきてくれた除湿器が活躍したり、畳をはいで延長ホースとノズルで和室を洗浄したり、引き出しを開けてご登場する汚水を捨てたり、家具を移動させた結果今回我が家唯一の生物の犠牲者となったゴキブリの仏様を発見したり、家具を捨てたり、濡れた本を始末したり、姪っ子が猫を襲撃して猫が困ったりとドタバタしたが、とりあえずまた一階の台所で温めた飯を一階で食っている。
車庫の車のエンジンがかからず水をケツから吐き出してうんともすんとも言わずに放置されたり、俺のチャリンコの荷台にどこから流れ着いたのか分からん木のウィング(トタン板?)が乗っていて床上浸水号として第二の人生を歩ませるか悩んだりとまぁあったのだが、発見されたゴキブリの仏様以外に犠牲者はなく、人間猫共に無事だった。
なんのことはなくよくある「こうなるとは思ってなかったわー」だの「いやー30年住んでいて初めてですよー」だのという自然の驚異をナメていた一家が食らった災害な一日である。
...のだがそういうナメていた我々でもいい勉強になったことは多々あった。

床上浸水してからではたぶん遅いんだろうとか
懐中電灯ってもっと本数必要だったんじゃないかとか
懐中電灯のような前を照らす照明じゃなくて周囲を照らすランタン的な非常用照明器具必要だったんじゃないかとか
UPSを家具の奥に設置すると停電時にピーピーウッセーが非常事態でそれを止めるだけの気力もなくただウッセーなアレとなるなとか
床上浸水って上水で流さないと泥スゲーなとか
床上浸水したら掃除するときにまず引き出し開けて机をわざと脚持ち上げてみないと掃除し終わりかけたときに汚水がドバっとインチキおじさんの如く登場するとか
冷蔵庫は床下浸水25cm程度でも横転するぞとか

でも今回一番ためになり、難を逃れるきっかけとなったのは床下収納の存在でしたね。
床下収納の蓋があそこで勝手に持ち上がらなかったらもっといろいろ危機感が足りなく間に合わなくなったんじゃないのか、とは思います。

2017年4月19日水曜日

飼っていた猫が死んだ

今僕の目の前には1つの骨壺が置かれている。
中に入っているのは10年以上飼っていた猫のものだ。
飼っている猫が死んだと書いて終わればそれだけの話ではあるんだけど、それだけで終わらせるには少しだけ思い入れのある可愛いヤツだった。

子供の頃から猫が好きで近所の友人の家へ友人が飼っている猫目当てで遊びに行ったりしていて、猫を飼うのが夢だった。中学生の頃の家庭科の時間理想の一軒家の間取りを書いて提出する課題では自分の部屋よりも大きな猫専用の部屋を書いて提出したことを今で覚えている。

だけれども残念ながら高校一年生まで僕は猫を飼ったことがなかった。飼いたいと思って両親に相談しても駄目というのはよくある話でその代わりというと彼らには失礼だがハムスターとかザリガニとか亀とかを飼っていた。

そういう猫が好きで野良猫や他人の猫を撫でて高校一年生を終えた頃、僕自身の心境に変化があり、簡単にいうと学校に行けなくなってしまった。よくある不登校というヤツだ。
ここでは不登校がどうのこのうのとか根性がないだの根性論を言う気は無い。何故なら既に正式に退学しているし、退学したこと自身は前向きの退学だったし、それに僕が今回書きたいのは猫の話だからだ。

僕が通っていた高校の近くには公園があってかなりの野良猫がいた。学校に通っていた頃は帰り道にその公園をわざと通って猫を眺めたり、ご飯をくれるまで後ろをトコトコ歩いてついてくる猫(という噂だった。野良猫にご飯をあげたことは今まで一度も無い)を連れてのんびり歩いたりと充実した生活だったのだが、学校に近づきたくもないという心境になり学校から離れてしまったので生活の中で猫と接する機会がめっきり減った。

まぁ高校生の息子がそのような状況だからと母親がカウンセリングを受けさせるために診療所に連れていってくれるようになり、カウンセリングのために家の外に出る以外は家の中に籠もっていたある日、僕はふと「猫が見たい」とカウンセリングの返り道に母に言った。

丁度自宅の最寄り駅の近くにペットショップが一件あって、そこで猫を眺めてから帰ろうということになりペットショップによることになった。

回りには血統書付きの売り物の猫がショーケースに入って愛想を振りまいている中、床に置かれた檻の中に雑種の子が一匹入っていて、見た瞬間一目惚れしたのは覚えている。
今まで猫は家では飼わないという約束だったのだが僕の母親も息子がそんな感じだったので心の足しになるだろうと思ったのだろう、仕事に出ている父親がOKと言ったら飼ってもいいよということになりその場でその子の値段を店員さんに確認した。

値段はタダ、ということで話を聞けば1週間ほど前から店の近くをうろついていたが非常に弱っていたので虫取り網で捕まえて保護していた。トイレの躾も完璧だし人に懐くので迷い猫かと思っていたがそのような情報も無く捨て猫なのだろうということだった。

仕事途中の父に電話をして自分や母がなんと言ったのかはもう覚えていないが、父も猫を飼うことを許諾してくれこうして我が家に新しい家族が増えたのであった。
今でもペットショップで入っていた檻ごと我が家に連れ帰り床に檻を置いたときになれないことにパニックになって檻の中で飛び跳ねて鳴き叫んでいた彼女の鳴くパターンは覚えている。

そしてそのペットショップで丁度捨て猫として保護されていたのが先日無くなった猫の凪紗である。

僕がそのような状況で17歳にして高校にも行けず家にいるわけなので必然と凪紗と接する時間が長かった。初めは本棚の本の隙間に隠れたり網戸をよじ登ったりと子猫らしいことをして楽しませてくれたり、人間が食べているカレーライスやラーメンに手を突っ込んで驚いたり、ポテチやシュークリームを奪って食べてしまったりと野良経験がある分人間の食べ物に興味があるんだなぁ流石は畜生と思わせてくれた。
猫を飼っているんだからとそれまでしてこなかった自室の掃除やゴミ取りをする習慣がついたのはこの頃である。

飼い始めてから1年2年過ぎて僕が布団で寝るときになると枕元に来るようになった。ただまれに僕が普段と逆さまに寝ると足ともで寝るという僕と寝たいに近いだけだったのだが、ある日逆さまに寝始めて彼女が足下で寝始めたとき、持ち上げて僕の枕元に寄せてきて頭を撫でてやったその日から僕がどんな向きで布団で寝始めても枕元で寝るようになり猫と言えども知恵があるんだと感心したものである。

何をするにも一緒、母が食事だと居間から呼ぶ声がすれば自室を一緒に出て居間に行き、戻るときも一緒、一緒に座ってテレビを見たり、僕が風呂に入れば脱衣場で風呂の磨りガラスのドアにしがみついて鳴いたり、僕がトイレで用を足していればドアの前で鳴いたり、寝るような時間になればはやく布団で寝るぞと言わんばかりに合図をしたりと生活してとても張り合いがある子だった。

その後高校は退学したものの大学に進学し僕自身はまだ人生やり直せるかなぁなんて思ったりもしたわけだけど、僕が家から出るときは僕の部屋の出窓から僕のことを見下ろしてくれて、僕が家に帰ってくるときも出窓からこちらを見ていて、玄関に入ると玄関までやって来て挨拶をしてくれた。お向かいさんからは「よく猫ちゃんがあそこの出窓から顔出してるわよね」なんて言われて嬉しかった。

家族にも懐いてくれて居間にソファーがあったのだけれども、人間達が座っていると人間達の隙間で寝たり一緒にテレビを見たり、ソファーに座っている人間の膝の上に座ったりと家族も凪紗のことをかなり気に入っていた。

食卓に魚が並べば二本足で立ち上がりテーブルの縁に前足を置いて魚を捕ろうとしたり、花瓶に花を生ければ人間が見ていない好きを狙って花をかじったり花瓶を倒して割って母に雷を落とされたり、僕がテレビを見たりゲームをしたりとかまってあげないと部屋に飾ってあるフィギュアやぬいぐるみを1つ落としてはこちらの様子をうかがい構って貰えるまで1つずつ次々と落としていって困らせたりと賢いヤツだった。

そんなある日凪紗が最近元気がないという話になり病院に連れて行った。定期検診等は今まで受けたとことがなく、避妊手術をした時以来10歳にして初めての病院だったのだが、血液検査の結果腎不全と言うことが分かった。その時「ここまで悪い数字を出した猫ちゃんは2日後に亡くなったよ」と医者から言われて病院の中で泣いた記憶がある。

結局延命するには1日2回、僕が病院から購入した栄養剤?を皮下注射するということになり、1日2回、朝晩の凪紗への注射は僕の日課になった。それとご飯に混ぜる粉薬と飲み薬を買った。

初めの頃はどうしても凪紗は注射が嫌で物陰に隠れて引っ張り出すのが大変だったし、薬がかかったご飯は不味いようで「こんなもの食うくらいなら死んだ方がマシ」状態だったらしい。栄養剤だけで生きている状態になったりしたが、その後粉薬や飲み薬を飲んでくれない以上ご飯は何もかけずそのままのものを、皮下注射だけは続けようということになった。
しばらくは布団で凪紗と一緒に寝るときに枕元に来てくれた彼女を撫でつつ「凪ちゃんお前やっぱり美人だねぇ…」と声をかけつつ泣いていた記憶がある。

その後定期的に血液検査をしつつ栄養剤を毎日のように入れていて、ご飯は薬がかかってないものなら食べてくれるようになったし、その時点では回復しているように見受けられ一次的には栄養剤を皮下注射するのをやめた時期もあった。無論医者とも相談した結果だったのだが結局また皮下注射だけは毎日するように戻ってしまった。
医者に入ったり自宅で皮下注射するたびに「後10年くらい一緒に生活したいんだけどなー」と言っていた記憶がある。

そんなある日、僕は大学を卒業して社会人をしつつ凪紗への朝晩の注射だけは欠かさなかったのだが、会社との間で賃金交渉が決裂し、資格を取りつつ凪紗の世話をしつつ転職しようということで会社を辞めた。

なんのことはなく資格勉強は勤勉とは言えなかったが資格自身は取れ、凪紗の容体も皮下注射をし続けていれば安定していたある日、いつものように動物病院に薬を買いに行ったときに獣医から「凪紗ちゃんと同じ頃に腎不全になった子、みんな亡くなっちゃったよ」と言われた。覚悟は決めていたつもりがその場でペットの火葬を扱ってくれる業者を紹介して貰って家族とも値段を確認したり連絡先を確認したりと最後の時が来るのを覚悟した。

2016年のクリスマス、知人が家に遊びに来てくれて、チキンとクリスマスケーキを食べた。僕の部屋は凪紗の部屋でもあるので凪紗もいたし、僕も最後のクリスマスだからとチキンやケーキを少しだけ凪紗に舐めさせてやった。凪紗のヤツケーキの箱に頭を突っ込んで顔にクリームがついていたのを覚えている。

大晦日は姉夫婦が遊びに来てくれてまだ1歳にならない姪っ子を抱きかかえた旦那さんと、凪紗を抱きかかえた僕を母がデジカメで撮影してくれた。その時の写真は今目の前にある。

この頃は少し痩せてきたとは感じていたけれども、毛並みも良く、ご飯も食べてくれて愛想も振りまいてくれていた。いい年越しだったねぇ、来年はいないのかねぇ…なんて家族と言い合っていた記憶がある。

2017年の1月、僕は余らせていた趣味の機材を友人に売ったお金で安いコタツを買った。
実はかなり早い段階から猫とコタツでゴロゴロするのが夢だったのだが今まで我が家にコタツはなかった。凪紗も伊織も(実は凪紗の他にもう一人猫を飼っている。凪紗の次に来た子で今目の前で寝ている)コタツをとても気に入ってくれて三人でゴロゴロした。

2月頃、凪紗がご飯を食べなくなった。皮下注射だけはかかさずやっているのだが痩せていった。初めの頃は人間のご飯だけは食べようとしてくれたのだけれどもそれをあげるわけには行かず、どんどんと痩せていった。

しばらくすると口元が汚れていった。多分胃液か何かが逆流してきたものと思う。そのうち口から胃液のようなものをずっと垂れ流すようになった。僕はまだ人間のご飯だけは食べようとしてくれているからと今までよりも高級な猫缶とカリカリを買ってきて凪紗の前に置いてやった。かなり残してしまっていたが初めの頃は食べてくれた。少しすると舐めるだけになった。そして匂いをかぐだけになった。

それと同時期に凪紗がふらつくようになった。酔っ払ったおっさんがふらふらするかのようにとてもふらふら歩くようになったし寝転んでいる時間が増えた。トイレに行くにもふらふら、ふらふらとトイレに行き、トイレから戻るときもふらふら、ふらふらと戻ってきた。ただ名前を呼べば返事をするし、挨拶するとウィンクを返してくれて愛想は振りまいてくれていた。

その後トイレまでふらふらと入ってトイレの縁をよじ登って超えた後凪紗は猫砂の上に倒れるようになった。倒れて数十秒してから起き上がってから用を足すようになった。いよいよかなと思った。

それまでコタツにいた凪紗が僕のベッドの下に籠もったのは亡くなる1日前のことである。あまりそういうことに関しては興味が無い伊織も凪紗が籠もっているベッドの下を外からジッと見つめるようになっていた。僕はベッドの下は寒いからとコタツの中に持ち上げて入れてやった。その夜僕が最後に見た時は凪紗はコタツから頭だけ外に出して寝転んでいた。頭を撫でてやってまだ愛想を振りまいていた。

朝、目覚めると凪紗がコタツにいなかった。カーペットと板場の狭間でカーペットに頭を置いて、身体を板場に置いていた。寒いのになんでだろうと思い撫でてやったら下半身が濡れていた。恐らくトイレにもうよじ登れなかったのだろう。そして(これはあくまで親馬鹿な僕の勝手な想像だが)頭の良い彼女のことだったからカーペットを濡らすのは忍びないと思ってそのような倒れかたをしていたのだと思う。
その朝凪紗の皮下注射をしたとき、初めて彼女が針を刺しても無反応だったのを覚えている。
皮下注射を終えた僕は凪紗を抱きかかえて座蒲団に座らせた。その時に「最後くらい座蒲団の一枚二枚ぬらしたっていいんだから一緒にいてくれよ」のようなことを言った記憶がある。まだ呼びかけには反応してくれていた。
僕はコタツに入り、僕のすぐとなりに凪紗を寝転がせた座蒲団を置いて、左手で彼女の両手を握りつつ、右手で頭を撫でていた。呼びかけをするとウインクを返してくれた。
アンプも繋げていないエレキギターでヘタクソにアメージンググレースとかカントリーロードとか弾きつつ凪紗に聞かせてやったあと、まだ部屋の雨戸を開けていないことに気がついて「凪紗、お外見ようか」と言って雨戸を開けて部屋に光を入れた。

その時、凪紗に瞳孔反射が起こらなかったのである。そしてそれに気がついたときにはまだ凪紗は呼吸をしていた。兎に角手を握りつつ頭を撫でつつ「凪紗、俺が分かるかー?ずーっと一緒だからな?」と声をかけていた。でも遂ウィンクで返事をしてくれなくなり呼吸をしなくなったと分かったとき「ありがとな、今まで本当にありがとな」といった。
遂に看取ったんだと分かった後、葬儀屋に電話をした。葬儀屋に連絡し始めてようやく遂に凪紗が死んでしまったんだという実感をしなければならずその日初めて嗚咽がでた。

その日のうちに凪紗は葬儀屋に行った。そして家族が帰ってきた後、明日は親戚の結婚式、明後日は僕の入社式というこの日を選んだ凪紗は最後まで頭が良い子だったんだな、と話し合った。

遺骨は次の日には戻ってきた。戻ってきた骨壺を伊織に見せてやったら頬ずりをしてくれたのを覚えている。

そして僕は平日社会人をやるようになった。
1週間後、無職の頃は毎日掃除していた部屋を久しぶりに掃除することになり掃除機を部屋に当てていたときに、ゴミやチリの内容に茶色い毛が混じってないことに気がついた。凪紗を出棺した後すぐに部屋を掃除したし、茶色い毛が生えていたのは凪紗だけだった。
その時に凪紗はもういないんだと再度思ってしまい掃除を途中で投げ出して鳴いた。今まで子供の頃からひい婆ちゃんやじいちゃん、ハムスターなんかを亡くしたときも、亡くなって1週間も経ってから鼻提灯出して泣いたことはなかった。それほどまでにずっと一緒にいた家族でありある意味では凪紗は娘だった。

その日凪紗がなくなる2年前までつけていた首輪が出てきた。2年前に外した理由はご飯が食べづらそうだったから少しでも彼女に楽をさせるため、とかだった気がする。子猫の頃から同じ首輪で短く切りもしなかったから子猫時代の彼女には端が長すぎて邪魔だったんだろう。自分の歯で端っこをチリチリにさせてスカーフのようにしていてとてもお洒落だった。僕が生まれて初めて自分以外の相手にどんなものなら似合うのかと悩んで選んだアクセサリーだった。

その後、仕事の昼休み一人で凪紗の首輪を手に持ちつつずっと鳴いていた日もあったが今はその時よりはだいぶ楽になっている。

飼っていた猫が死んだ。と一文で終わらせることも出来る話だし、今までにペットを飼っていた人からすれば「最後がちゃんと看取れて良かったじゃないか」という話でもある。
オチもない話でもあるし、タダの内輪ネタに過ぎない話ではある。
ある意味では猫一匹の終身介護のために仕事を辞めて猫が天寿を全うしたから再就職したという内容でしかない。

無理やり何を言いたいのかとまとめるならば、ペットはいい、とても素晴らしい家族です。
とても可愛いし生活にメリハリがつくし張り合いがある。出かけるとき家に帰ってくるときに挨拶してくれるし一緒にテレビ見たり一緒に寝たり、素晴らしいパートナーとなってくれます。
ただ生き物である以上必ず終わりは来ます。でもだからといって終わりが来るものだからペットは飼わなきゃ良かったなんてそうはならないはずです。それ以上のものをそれ以上の期間人間に与えてくれます。でも終わりは来ます。
終わりが来るととても悲しいです。所謂ペットロスでしたか、それはとても辛い時期です。

仮にペットを飼いたいとなったときに「いつかは死ぬものだしちゃんと最後まで面倒見られるのか?」とそれを言うが言われる側どちらにせよ多分その時は面倒見られますと答えるものでしょう。そして終わりが近くなれば建前としては覚悟をするでしょう。
でもいざその瞬間が訪れると分かったとき訪れたときその建前はしょせん建前でしかなかったと自分の覚悟が甘かったと思うかもしれません。それでもペットを飼うというのは素晴らしいことなんです。

2016年7月7日木曜日

リンクアグリケーションで静的とか動的の意味を理解していなかった話

参考文献とか引用とか足りないとは思うがあくまでも鳥頭の自分がまた忘れる前にメモということにしておく。こういうところならローカルで埋もれたりディスククラッシュ等々よりも安全でしょうし
業務でやっている人々には当たり前の話かもしれませんが触る機会がないと単語だけ渦巻いて躓くことだってあるんですよ。

事の発端はIntel I350-T4を取り付けてFreeNASでリンクアグリケーションをしようとしてよく分からなかったと言うところだったんですがそれはさておき、自宅のLANでリンクアグリケーション(チーミング? ボンディング?)をしようかと思ってNICを複数そろえたりスイッチを買っているうちに上手くいかないなと思っていたことがあったのですが要するにこういうことだったらしいということ

リンクアグリケーションって静的と動的の2タイプあるっぽい
多分下記くらいの認識しておけばこのレベルで悩んでいる場合OKっぽい
  • 静的アグリケーション->設定等々でStaticと表記されるようなもの
  • 動的アグリケーション->設定等々でLACPと表記されるようなもの

GS116の場合 ( http://www.netgear.jp/products/details/GS116E.html
例えばネットギアのGS116はリンクアグリケーション対応と書いてあってもLACP対応とは書いてない、専用ユーティリティーやWebインターフェース上ではアグリケーション可能なんだけどこいつの場合静的しか対応していないという事だった。スイッチ側の設定と、NICやOS側両方の設定が必要になる。
 
GS108Tの場合 ( http://www.netgear.jp/products/details/GS108T.html
GS108TだとmanualもLACPも対応と書いてあるのでLACPも使えるらしい、LACPだとスイッチ側の設定がいらないらしい(実はスイッチ持ってない…)

  • アンマネージドプラスだと静的のみ
  • スマートスイッチだと静的動的両方

ネットギアさんのスイッチだと上記くらいに思っておけば良いらしく、
個人的にはLVAN切るだけ(+スイッチ間のアグリケーション)ならアンマネージドプラス、スイッチ<->コンピュータ間のアグリケーションもしたいなスマートスイッチなのかなと

  • 静的動的共にスイッチのサポート必要なしでOS側の設定だけで可能なもの
  • 静的対応のスイッチが必要なもの
  • LACP対応のスイッチが必要なもの

今更なんだけどリンクアグリケーションってやるなら上記パターン知らないといけないんだなってのと、それ以上は真面目なドキュメント読んだほうがいいんじゃないでしょうか、RedhatとかFreeNASとか

2016年5月2日月曜日

RTX1200からlinux上の透過プロキシとして待ち構えているsquidに通信をフォワードする

はじめに

RTX1200を手に入れた後、やりたかった透過proxyサーバへ通信をねじ曲げる方法が調べてもまとまった情報として見つけることが出来なかったのでここにメモする。
恐らくは「RTX1200 透過プロキシ」なんかでググっていたのが悪いとは思うものの未だにどう調べればピンとくるんだということが分かっていない。

ip foward コマンド使え

RTX1200がゲートウェイの環境にて透過プロキシを使用したい場合、下記方法で指定したパケットをフォワードする必要がある。

参考) パケット転送フィルター
http://www.rtpro.yamaha.co.jp/RT/docs/forward-filter/


例えば、192.168.1.254のアドレスが設定されたRTX1200において192.168.1.2~192.168.1.253までのIPアドレスから外部へのhttp通信をRTX1200から192.168.1.1の透過プロキシサーバにフォワードする場合は下記のconfigになる。
このとき、ループの原因となるためフォワードするIPアドレスの範囲にRTX1200とプロキシサーバのアドレスを含まないようにする。

RTX1200側のconfig
ip lan1 address 192.168.1.254/24
ip lan1 forward filter 100
ip forward filter 100 1 gateway 192.168.1.1 filter 1100
ip filter 1100 pass 192.168.1.2-192.168.1.253 * tcp * www

Linuxで構築されているsquidサーバ
iptablesの記述
iptables -t nat -A PREROUTING -s 192.168.1.0/24 -p tcp --dport 80 -j DNAT --to 192.168.1.1:3128
プロキシの設定(今回はsquidなので/etc/squid.conf )
http_port 3128 intercept
その他
デフォルトゲートウェイ設定は192.168.1.254 ( <- RTX1200のアドレス) 

上記設定で後はsquidのログを確認するとよい。

プロキシサーバが落ちた場合どうするのか?

RTX1200は正常に動いているのにプロキシサーバ側が落ちたらどうするの?ということを考えなければいけないんだけどRTX1200でpingによる死活監視をして切り替えることができるっぽい。
ただし、これだけだと多分squidだけが落ちていて192.168.1.1からpingが返ってくると切り替わらない気がする。

参考 ) ネットワークバックアップ機能
http://www.rtpro.yamaha.co.jp/RT/docs/backup/network-backup.html

例えば下記を用意した場合、下記configを使うとプロキシサーバAである192.168.1.1からのpingが帰ってこなくなるとBに切り替えてくれる。

  • RTX1200
  • プロキシサーバ A 192.168.1.1
  • プロキシサーバ B 192.168.1.2 <- AとIPアドレス以外同じ設定


ip lan1 address 192.168.1.254/24
ip lan1 forward filter 100
ip filter 1100 pass 192.168.1.2-192.168.1.253 * tcp * www
ip keepalive 1 icmp-echo 5 5 192.168.1.1
ip forward filter 100 1 gateway 192.168.1.1 filter 1100 keepalive 1
ip forward filter 100 2 gateway 192.168.1.2 filter 1100

2016年3月26日土曜日

squid+privoxyの多段プロキシ環境で、親プロキシを経由させないホワイトリスト設定をする

squidで親プロキシをわざと経由させないルールやホワイトリストを作成したい

透過プロキシにて Squid -> Privoxy を通し、Webページの広告フィルタリングとキャッシュを行うときにキャッシュしたくないURLや広告フィルタリングを通したくないページなどがあるのでどうするべきかということを試した。

PC -> デフォルトゲートウェイ -> Squid(http_port *** intercept) -> privoxy -> インターネット

上記のような環境で透過プロキシとしてSquid+Privoxyを組み合わせるときに、そのゲートウェイを使うPCからは全て一度Squidに入りますが、親プロキシであるprivoxyを経由させないホワイトリストをsquid.confにて設定する話になります。

補足になりますが、私の環境ではtcp/80のインターネットに出る通信だけをRTX1200からプロシキサーバにフォワードしているので、http以外のことは知らないしあまり深入りはしないようにしようと思っています。


また、大前提として下記を想定していますがそういう話はこれ以上省きます。

  • ゲートウェイからインターネットに出るtcp/80の通信を全てsquidにフォワードしている
  • Squidは透過モード
  • Squidが子供 ( Arch linux squid 3.5.15-2 )
  • Privoxyが親 ( Arch linux privoxy  3.0.24-2 )
  • squid.confの親プロキシ設定は下記1行のみ
cache_peer 127.0.0.1 parent 8118 7 no-query



パターン1 クライアントのIPアドレスで親プロキシを経由しない場合



  • 192.168.254.1~127までは親プロキシを経由する
  • 192.168.254.128~192.168.254.254まで親プロキシを経由しない

ということが可能になる。
ゲーム機やAmazon FireTVStick等をdhcp側でIPアドレス決め打ちするときに便利

acl noFilterSrc src 192.168.254.128-192.168.254.254
always_direct allow noFilterSrcIp
never_direct allow all

パターン2 指定ドメインにアクセスするときに親プロキシを経由しない


主にトラブル回避のためにxbox.comとかmicrosoft.comとか、
特定のドメインにアクセスするときには親プロキシであるprivoxyを経由しない。
親プロキシが今回のようにフィルタリングプロキシの場合、
privoxy側のフィルタルールを緩めたり例外するのも勿論とは思いますが:p

acl noFilterDomain dstdomain "/etc/squid/noFilterDomainList"
always_direct allow noFilterDomain
never_direct allow all

/etc/squid/noFilterDomainListの中身
# Bypass filter proxy domain List
.yahoo.co.jp
.google.com
.xbox.com
.microsoft.com
.apple.com
.steampowered.com

パターン3 指定した拡張子のファイルにアクセスするときに親プロキシを経由しない


主にprivoxy等の不可が酷くなる場合で尚且つアンチウイルスレイヤーを貼っていない場合にバイナリファイル等を拡張子で判別して親プロシキを経由しない。

acl noFilterFileExt url_regex \.(zip|exe|iso|img|7zip|rar|bin|dll|msi|bundle)$
always_direct allow noFilterFileExt
never_direct allow all

上記3パターンを全て混合する場合は下記のような記述になります。

acl noFilterSrcIp src 192.168.254.128-192.168.254.254
acl noFilterFileExt url_regex \.(zip|exe|iso|img|7zip|rar|bin|dll|msi|bundle)$
acl noFilterDomain dstdomain "/etc/squid/noFilterDomainList.txt"
cache_peer 127.0.0.1 parent 8118 7 no-query
always_direct allow noFilterSrcIp
always_direct allow noFilterFileExt
always_direct allow noFilterDomain
never_direct allow all

(2016年11月21日 勘違いしている箇所もあったので修正及び追記)

2015年7月23日木曜日

arch linux で lxcを動かす

本文章はarch linuxをlxcホストにしようと
  https://wiki.archlinux.org/index.php/Linux_Containers を参考にして

  # lxc-create -n playtime -t /usr/share/lxc/templates/lxc-archlinux
 を実行し
  ... is corrupted (invalid or corrupted package (PGP signature))
と言われ正常に動作できなかった環境向けに
arch linuxをlxcホストとしてarch linuxをコンテナとして動かすという文章になります。


またこの文章を見る前に大変参考になる
  http://hachulog.blogspot.jp/2013/03/lxcarchlinux.html

を参照することを強く推奨します。

(2016年 11月21日追記 )
実は先日新規にarch linuxのlxcホストサーバーを構築していて気がついたのですが、
どうもPGP関係のログの箇所で止まることに関しては
arch wiki https://wiki.archlinuxjp.org/index.php/Linux_Containers の通り
システムエントロピーが足りない(?)ことが原因している可能性があります。 
裏でhavegedを起動してしまえばそもそも本文章のようなことをしないでと思われます。
(追記終わり)
 
(というか上記様の構築方法を参考にしようとしていたら現在だと少し後半の作業が不必要だったり差異があって
1つのまとまった文章としてこっそり後でどこからでも見れるものを用意しようとしてこの記事は存在します。)


 
悩ましいところとしては
  • # lxc-create -n playtime -t /usr/share/lxc/templates/lxc-archlinux がうまく動いてくれない? 
  • /usr/share/lxc/templates/lxc-archlinux がおかしい?
  • lxc-create とか lxc-atattch が変?(少なくとも手元ではlxc-attachでpacmanするとPGP云々で正常ではない
という感じ

 

本文章では下記のような構成にてコンテナを動かします。
 
  • lxcの原理とか動かねぇとかしったこっちゃないがlxcを使ってみたい自宅ネットワーク管理者向け 
  • macvlanを用いて既存のネットワークに直にコンテナを出す
  • 初期設定を除き最終的にsshdでの管理を行う
  • lxcのコンテナの開始停止自動実行等はsystemdにて行う
  • コンテナの中のarch linuxは強引にarchをベアメタルインストールするときのようにpacstrapにてインストールする。 

ホストの環境
  %uname -r
  4.1.2-2-ARCH

ホストで必要なパッケージ
  # pacman -S arch-install-scripts lxc

 
コンテナ sample の作成
 
  下記設定にてsampleを作成した場合
    ホスト名 sample.localdomain 
    ネットワークインターフェース eth0 
    IPアドレス 192.168.1.128
    ゲートウェイ 192.168.1.254
  というsampleが出来上がります。

    # cd /lxc/var/lib/lxc

    # mkdir sample
    # mkdir -m 0755 /sample/rootfs
    # vi /lxc/sample/config
 
autodevを使わずにsample直下にはrootfsとconfigのみとなり、configにて/dev下をホワイトリスト形式で許可します。 
(デバイスの箇所は http://hachulog.blogspot.jp/2013/03/lxcarchlinux.html 様そのままです。)
 
  lxc.utsname にてホスト名
  lxc.network.link にて、既に通信が可能なネットワークインターフェースを指定します。
 
/lxc/sample/config 

lxc.utsname                     = sample.localdomain

lxc.network.type                = macvlan
lxc.network.macvlan.mode        = vepa
lxc.network.flags               = up
lxc.network.link                = lxcdmz0
lxc.network.name                = eth0

lxc.network.ipv4                = 192.168.1.128/24
lxc.network.ipv4.gateway        = 192.168.1.254
# device configration
lxc.pts                         = 1024
lxc.tty                         = 4 
 lxc.rootfs = /var/lib/lxc/sample/rootfs
# deny all devices
lxc.cgroup.devices.deny         = a

# /dev/tty0..3
lxc.cgroup.devices.allow        = c 4:0 rwm
lxc.cgroup.devices.allow        = c 4:1 rwm
lxc.cgroup.devices.allow        = c 4:2 rwm
lxc.cgroup.devices.allow        = c 4:3 rwm

# /dev/tty
lxc.cgroup.devices.allow        = c 5:0 rwm
# /dev/console
lxc.cgroup.devices.allow        = c 5:1 rwm
# /dev/ptmx
lxc.cgroup.devices.allow        = c 5:2 rwm

# /dev/null
lxc.cgroup.devices.allow        = c 1:3 rwm
# /dev/zero
lxc.cgroup.devices.allow        = c 1:5 rwm
# /dev/random
lxc.cgroup.devices.allow        = c 1:8 rwm
# /dev/urandom
lxc.cgroup.devices.allow        = c 1:9 rwm

# /dev/pts/*
lxc.cgroup.devices.allow        = c 136:* rwm
# /dev/rtc
lxc.cgroup.devices.allow        = c 254:0 rwm



# device configration
lxc.pts                         = 1024
lxc.tty                         = 4
sample/rootfs に pacstrapでシステムを入れます。
  # pacstrap -i -d /var/lib/lxc/sample/rootfs/ base openssh

sampleを起動してみます。
  # systemctl start lxc@sample

sampleの状態を確認します。
  # systemctl status lxc@sample
  # lxc-ls -f
  # ping 192.168.1.128
 
動いている場合lxc-ls -fの結果が下記のようになります。
 
NAME       STATE    IPV4             IPV6  GROUPS  AUTOSTART
------------------------------------------------------------
sample     STOPPED  192.168.1.128    -     -       NO

 
 
(注意 macvlanの仕様により同じインターフェースからは通信できません。
例えば、NICが1つしかないホストでmacvlan使っている場合上記ではホストからping通りません。
デュアルNIC等で別なインターフェースから飛ばすか、別なマシンからpingテストして下さい) 
 
sampleに乗り込みます。
  # lxc-console -n sample -t tty1
    => root パスワード無しでログイン

sshで管理出来るようにするまで設定します。
 rootのパスワード設定
  # passwd
 
 管理ユーザー等作成
  # useradd -m hoge
  # passwd hoge 
 
 時刻を日本にお住まいなら日本に設定
  # timedatectl set-timezone Asia/Tokyo
 
 journalctl -xeして確認するとsystemdがコンクリフトさせている箇所があるので /dev/nullへ対処
  # ln -s /dev/null /etc/systemd/system/systemd-udevd.service
  # ln -s /dev/null /etc/systemd/system/systemd-udevd-control.socket
  # ln -s /dev/null /etc/systemd/system/systemd-udevd-kernel.socket
  # ln -s /dev/null /etc/systemd/system/proc-sys-fs-binfmt_misc.automount
 
 sshdの自動起動
  # systemctl enable sshd
 
 sampleから抜けます。
  # exit

C-a qでsampleから抜けて、ホストマシンに戻る
 諸々内部を荒らしたのでリスタート
  # systemctl restart lxc@sample
 
 自動スタートさせたい場合
  # systemctl enable lxc@sample 
 
sshでアクセスしてみましょう
  # ssh hoge@192.168.1.128
念のためにログは確認してみましょう
  # journalctl -xe 
 
上記でsshdで管理出来るlxcのコンテナが少なくとも手元では動いていますが
 
既知の問題として
  # lxc-attach -n sample 実行後
     pacmanとかzshとかが動いてくれない
     -> 何かあった場合はホストから # lxc-cosole -n sample -t tty1 して乗り込む

ということは確認しています。(sshdで管理しているので気にしないことにしていますが…)