xboxというゲーム機がxboxSeriesXとなった今、そしてxbox360が二世代前のゲーム機となった今、近所の友人が転職で引っ越した今であり、地上波でスタンドバイミーが放送された今だからふとどこかに文章としてまとめておきたいことがある。
10代の頃からビデオゲームというものは浪漫、格好良さを感じていて物心ついた頃はスーパーファミコンの時代だった。小学校高学年といえばニンテンドー64だった。3Dで動くマリオを見て「未来のテレビゲーム機がやってくる!」と本気で思った。それこそ放課後と言えば自転車のカゴにゲームソフトとコントローラーと母親がショバ代だとくれたポテチを入れて友人の家まで行って遊んだ。
中学生になりプレステ2に出会い、アーマードコアとかエースコンバットを遊んだ。高校生の頃プレステ3は買えなかった。Xboxもまだ知らなかった。
そんな中、僕の家は割と早めにADSL環境やルータが備わっていて、家にネット環境がなかった知人達はゲーム機を担いでウチにやってきて僕の部屋でネットに繋いでオンラインモードを遊んでいたりした。僕は僕でそのオンラインモードを眺めたり、画面分割でローカル協力モードをしたり、余ってるモニタで別なゲームをしたり
大学生になってアルバイトをはじめた。理由はアーマードコア4がしたかったからプレステ3が欲しかった。
ゲーム機とソフトが買えるくらいにたまったとき、エースコンバット6と地球防衛軍3がXboxシリーズ360でしか遊べないと知った。アーマードコア4はPS3にもXbox360でも遊べた。
だから僕はXbox360を買った。ネット環境もあり、ゴールドメンバーになってはいた。
そんな中Xbox360でバトルフィールドバッドカンパニー2というゲームを知り、オンラインでネットで知り合った人々と同じ戦場に乗り込んでいた。一人一人は自分の家の自分の部屋で、オフラインでは離れた場所で、オンラインでは一緒の戦場でね。
まだ大学生だったし、オンラインでもオフラインでも友人という人はいた。なんの瞬間だったんだろう?もう5年早くこのテキストを書き始めていれば覚えていたと思う。
僕はXbox360を担いでやって来た友人を自室に招き入れ、xbox360を並べ、LANケーブルを繋ぎ、モニタも②枚あったから同じ戦場に乗り込んだ。同じ空間にゲーム機のセットが2つ、人間も2人、同じ戦場に乗り込んで隣のモニタをのぞき込み,隣で繰り広げられるスーパープレイに歓声を上げ、同じ袋の中のポテチを摘まみ小学生の頃に戻ったみたいだった。
その後参加する人間は一人、二人と増え、最初は持ち込まれていたモニタ、ゲーム機もそのうち「共同購入」という形になりモニタは4枚、5枚と増え、xbox360も電源を入れたらすぐに遊べる状態で増えていった。経年劣化等で脱落した筐体を含めれば僕は今までに何らかなの形でxbox360は11台入手した。自分のアカウントで自分が同時に使うのは1台だけだが。
モニタも初めはTN液晶の視野角が狭いモノを複数枚持っていたが、同じ戦場で戦っている隣の戦友の状況が見えないことがあると全てIPSに買い換えたり、アルバイト代は家賃の他には殆どゲーム機やネットワーク機器の為に使ったと思う。4人5人が同時にオンラインゲームしながらwifiに繋いだ自分のスマホを操作しても大丈夫なようにルータ、スイッチもそれなりの品質のものを買っていた気がする。そのなごりが部屋に鎮座する1G48ポートのスイッチである。
彼らは週末食料をもってやって来る。ポテチを摘まみコーヒーを飲みながら同じゲームをして終電過ぎたりなんかもした。その後「夕飯はちゃんとしたモノを食べよう」と夕飯の時間になるとゲームを終えて、食材買い出し部隊は買い出しに、残りは部屋を片続けてホットプレートを設置して夕飯を調理して、食べながら録画していた地上波の番組を眺めて、皿洗いをしてまたゲーム機の電源を入れる。終電まで遊ぶ、終電逃したヤツは泊まっていく
大型連休になると地方から新幹線や船、中にはバイクで和歌山から東京まで手ぶらでやって来てオンラインゲームをして止まって帰っていく
そこには子供の頃一つのゲーム機にコントローラーを複数接続して一つのテレビで画面分割対戦していたあの頃の少年少女がただただ時の流れのせいで大きくなっただけの空間があったと思う。そして大人になり大人になったからコソやれるアレやコレも
午前中からオヤツ片手に登場して、ゲームして、ご飯の用意して自分達が食べ、ショバ代だと俺の家族の分もお好み焼きとかを焼いて俺の家族に提供したり、鍋のシメに米が欲しいからと俺の母親に話をつけて炊いた米を分けて貰ったり、自分達がやった分洗い、ゴミの分別はしっかりやり、録画したテレビも余ったモニタで見ながらまたゲームして
だが時も流れる。一人一人と新しい生活が始まっていき来ることがなくなる。またオンラインゲームの中でだけ、SNSの中でだけ、オンラインの中でだけの関係になる。
大学生を終えた俺に年下だったヤツがスーツで遊びに来たことがあった。「どうしたんだその格好は」と聞くと「就活関係で諸々行ってきて「俺これからどうすればいいんですかね」とやってからこっちに来た」と言う。彼もそういう歳になったのだ。
ある子は帰り際に就職しましたと名刺をくれた。そういう歳になったのだ。
趣味がビデオゲーム以外になった子も勿論いる。
無論,俺にも問題は沢山あったし今も問題はある。殆どの場合受け入れるが離れていくことに関して引き留めることもしなかった。時の流れが止められないこと、ゲームありきで集まったためか、ゲームがあればどれだけでも受け入れるがゲームがなければ集まらなかったとも思う。繰り返すが俺にも問題は沢山あったし、今でも問題はある。
ビデオゲームに関して否定的な人がいるのは知っている。だがその理由に生身のコミュニケーションが云々言い出す人が俺の周りにはいた。その点に関して俺は今でもビデオゲーム、オンラインビデオゲームも含めて、ガキの頃トランプで大富豪をやったとか、マージャン台囲んでいるのと何ら変わらないと思っている 。
何故ならオンラインゲームは生身で集まって出来たのだから、隣で繰り広げられるスーパープレイに感動し、一つの目標に向かって同じ部屋で、時には隣のモニタに指紋ベッタベタにつけて指さして指示を出して戦場で戦ってきた。バトルフィールドもワールドオブタンクスもPUBGも他のゲームもね。
あの頃に用意したゲーム機は結局殆ど稼働しなくなった。とはいっても予備機扱いである。まだある。スマブラで楽しんだWiiUだってまだある。あの頃20代だった俺達は「WiiUでスマブラをしにダチの家に集まった」のである。
諸々の付き合いが全て無くなったわけではない。オンラインで新しいゲームを共に遊ぶ仲間もいる。大型連休や年末年始に忘年会という形で集まり、居酒屋で盛り上がり、カラオケしたり、サウナ入ってみたり諸々もする。
XboxSeriesXが発売され、BFBC2の互換があると思いだしプレイしてみると、ゲームタイトルの西暦の表記から時の流れを感じ、そして希にいるかつて名前を嫌と言うほど見たプレイヤーが生き残っているのも眺め、モーションセンサーを投げ、MCOMに爆薬を設置しふと、あれからだいぶ月日が流れてしまったな、だいぶ色々なことが変わったなと思う。
どうして大人にならなければいけなかったのか、大人とは何なのか,何だから大人にならなければいけないのか、俺はただ、ずっと小学生だったあの頃みたいにチャリンコのカゴにゲームソフトとコントローラー入れて走って集まって遊んでいたあの日々が続けば良いと願っていた。20代の頃は、xbox360の時代の頃は今よりも強く思っていたと思う。そうその1世代前のPS2くらいまでの頃はまだオンラインモードというものが家庭用ゲーム機ではめずらしかったり、家のネット設備がまだ普及していなかったあの頃、だからこそだったのかもしれない。
今の俺といえばあの頃4人5人が同時にゲームしてスマホ弄って余ったモニタでChromeCastでYoutube流していても落ちないネットワークを用意しようとIX2015やらRTX1200のconfig弄っていただの、PCでも遊ぶことがあるのでマインクラフトだのファクトリオだののサーバーをlinuxで構築して、サーバーとユーザー端末のLANはわけたほうがいいからとVLAN切ったりDMZこしらえたりと、unboundでDNSキャッシュサーバー用意してdhcpdでmacでIP固定だのdhcpd冗長構成したりだのその知識を使って飯を食っている。
10代の俺は暗く、20代の俺は10代の頃手にすることが出来なかったアレコレを埋めようとしていた。30代の俺は20代の頃に得たもので今がある。20代の俺は今の俺の足しになってくれている。
若かったから、まだ学生だったり学生から上がったくらいだったからあんな馬鹿騒ぎが出来たんだと思う。
日本ではLANパーティーは珍しかったと思うし、それらを実現し、維持し続けたのはある意味「ビデオゲームは悪だ!」と言い続けたりダシにしてきた大人への皮肉だったのかと思う。トランプで遊ぶのやマージャンで遊ぶのと何が違う?と
でも、20代の頃のような素晴らしい戦友、経験はもう二度と出来ないとそう思う。
そんなことを、地上波でやっていたスタンドバイミーをラストまで見てしみじみと思った。